紅卍字会の埋葬にかかわる「許伝音証言」 ○許伝音証人 三日目に私は日本兵を伴うと云う条件の下に市内を通ったのであるますが 、この目的は路上 に、もしくは家の中に死んでいた、もしくは死なんとしている 者の数を略々決める為でありまし た。 『宮本モニター ちょっと付け加えます。「日本陸軍将校の許可を得て」』 ※ 許伝音の宣誓口述調書には「南京陥落後三日目に、私は 自動車で通りました。それは日本兵が紅卍字 協会に死体埋葬の相談をしに 来たからであります。私はどんな様になっているかを見にでかけました」 (ここまで引用) 以上(日中戦争史資料集8 東京裁判資料P25)
許伝音証言にある「3日目」というのは南京陥落後3日目ということと思われます(12月16日 頃)。その後、直ちに埋葬を始めたと言っているところから、12月中には埋葬を 始めたと考え られます。(ただしこの証言では最初に埋葬した場所が明らかにされていない)。これらの埋葬 にはどうやら許可が必要だったようです。国際委員会の公文書を見てみましょう。
この文書は12月17日付けで日本大使館に提出されています。文中の火曜日とは「12月14 日」を指していると考えられます。当初外国人たちは、埋葬には特に許可などは必要ではない と考えていたようですが、この事件が発端となって埋葬には許可が必要ということになったの でしょう。少なくとも城内の通行や城外に出る為の「通行許可証」が必要だったことは確かなよ うです。日本側特務機関資料によれば、南京の城門は日本軍により警備されており、自由通 行が解禁になったのは2月25日以降ですから、それ以前は許可証がないと通行は難しかった と言えるでしょう。 これは城門の警備状況に関する特務機関資料です。
これらの資料から考察すると、小規模な埋葬はともかくとして、数千以上といった大規模な 埋葬をおこなうには相応の人員が必要ですから、通行許可証がない団体が独力で大規模な 埋葬を行なったとは考え難いといってよいでしょう。特務機関資料には、埋葬を行なった団体と しては紅卍字会しか記録に残っておらず、その他の団体に通行許可を出したという資料は 無いようです。 埋葬記録の原典は存在するか? 許伝音証言によれば、東京裁判に提出された紅卍字会の埋葬記録は1937〜1938年当時 の記録ではなく、戦後に編集 されたものである可能性が高いと言えるでしょう。紅卍字会の埋 葬記録は、公式な記録としての保管は許されず「私文書として保管」していた物のようです。現 在中国に保管されているものは、東京裁判提出用に作成されたもののようで、許伝音が保管 していたという「メモ」原本は発見されていない(公開されてない?)ようです。 また許伝音は、日本側が埋葬記録を隠蔽しようとしたようなニュアンスの証言をしてい ますが、遺棄死体数について日本側の南京陥落後の発表では、12月27日の東京日日新聞が 53、874体、12月30日の朝日新聞が84.000体、と報道(いずれも上海派遣軍発表)しているの で、10万程度の死体が存在したとしても、死体数を隠蔽する理由は見当たらないということ です。(ちなみに日本の虐殺派の主張は10数万以上)。戦争をやってるのですから死体があ るのは当然で、それ自体は不都合なことではないのです。仮に死体数を隠蔽したいなら埋葬 を民間に委託せずに軍で行なうほうが確実です。第一、日本側資料(特務機関資料)には紅 卍字会の埋葬の様子が記録されています。 「後になって大虐殺があったことにしたい」 場合には当時の埋葬記録が残っているとい うのは不都合なのかもしれませんが、日本 側にはそれを隠蔽する理由はありません。 極論すれば死体数を戦果であると言い換え ることも可能だからです。 |