[PR]今日のニュースは
「Infoseek モバイル」

日本軍に殺された軍民の数!?
笠原表は正確か!?


と りあえず「南京事件」岩波新書・笠原十九司著から、日本側の記録による 虐殺記録の表を
転載してみました。 詳細な注釈と出典からの引用は、パート2にて行いますが、ここでは 戦闘
詳報や陣中日記に記載された戦果の「誤差率」について解説します。

南京事件 岩波新書 P224-225より
第6師団部隊人数範疇出展・史料
12月13日歩兵38連隊5000〜600長江渡河中殺戮歩兵38連隊戦闘
詳報
歩兵33連隊約2000長江渡河中殺戮(本書158頁)
佐々木支隊一万数千敗残兵殺戮(本書153頁)
同上数千投降捕虜殺戮(本書153頁)
1中隊1300投降捕虜殺戮(本書155頁)
重砲兵第2大7000〜8000投降捕虜殺戮藤原『南京の日
軍』
12月14日佐々木支隊(約2万)捕虜とする飯沼守日記
歩兵20連隊800武装解除して殺北山日記
同上310武装解除して銃牧原日記
同上(約1800)捕虜を連行同上
同上150〜160捕虜を焼殺同上
同上600敗残兵を連行処
(本書176頁)
12月24日〜1月5
佐々木支隊数千敗残兵狩りで処(本書206頁)
第13師団
12月14日山田支隊約1000敗残兵掃討飯沼守日記
12月16日〜17山田支隊約2万捕虜殺害(本書187頁)
第9師団
12月13日〜24歩兵7連隊6670難民区の敗残兵
刺殺
歩兵第7連隊戦
詳報
第114師団
12月13日歩兵66連隊1500余捕虜を背信行為
処刑
(本書155頁)
第6師団
南京攻撃中
(5500)捕虜獲得第6師団戦時旬
12月10日〜13
(11000)上河鎮下関遺棄
死体
同上
12月12日〜13
(1700)城壁遺棄死体(含
む掃討)
同上
第5師団
12月13日国崎支隊(約5000)捕虜の措置軍に
委任
『南京の日本軍』
12月14日歩兵41連隊(2350)捕虜を後刻処置
する
(本書162頁)
第2碇泊場司
12月16日
(約2000)下関で敗残兵処
梶谷健郎日記
12月17日
(約2000)下関で敗残兵処
梶谷健郎日記
海軍第11戦隊
12月13日
約1万長江渡河中殺戮(本書159頁)
12月14日軍艦熱海(約700)敗残兵武装解除吉田『南京事件と
国際法』
12月15日第2号掃海艇約500敗残兵殲滅同上
軍艦栂約700敗残兵殲滅同上
12月16日前後
数千八卦州の敗残兵
殺戮
(本書161頁)






 ( )内部の数字は、 処刑された記録がないものです。笠原教授は殺害された可能性が強い
としていますが、処刑 記述がないので( )扱いとしたということです。実はこの(  )の扱いが
かなり疑問と言えます。というのは、処刑したという記録と、中国兵の連行を目撃したもの
や、死体の目算というのを同列に集計するのは無理だからです。


 例をあげると、仮に2500人程度のゲリラ処刑があったとしましょう。
(1)連行を目撃(約3000人と A氏の目測)
(2)処刑(約2500人 実行者計測)
(3)死体の目撃(約4000体くらいとC氏が目測)


 これらを合計すると、実際の処刑数が3倍〜5倍に膨れ上がります。同じ捕虜集団が移動す
ることにより、複数箇所で目撃されるということも当然ありえるので、笠原教授が同じ表の中
「目撃情報」や「死体の数」まで入れて「累計」したのは、かなり問題がある行為といえます。











日本軍が殺害した軍民の数(の検証)


南京事件(岩波新書)P223〜226(224〜225は上記の表)

  ◎笠原教授の解説
 現在公刊されている日本側の資料から、南京攻略戦に参加した各師団がどのくらい 中国兵および中国兵とみなされた民間人を、捕虜・投降兵・敗残兵・「便衣兵」として 殺戮・処刑したかの累計をこころみたのが表1である。第9師団・第114師団・第6師団の 各部隊の戦闘詳報や陣中日記の公開がとくに遅れているが、もしも日本側の全連隊 の戦闘詳報がそろえば、捕虜、敗残兵の被虐殺者数(ここには民間人の男子も含まれている) の総数がかなりあきらかになることがわかるだろう。
 もっとも、戦闘詳報の記録は一般に戦果を多く報告する傾向があるから、の数字は あくまでも概数として扱うほかはない。それでも( )をつけなかっ虐殺者数は8万人以上 になろう。可能性のあった捕虜のほぼ全員殺害を想定すれば、10万人以上になる。
 わたしは、総数15万人の防衛軍のうち、約4万人が南京を脱出して再結集し、約2万人が 戦闘中に死傷、約1万人が撤退中に逃亡ないし行方不明になり、残り8万人が捕虜・投降兵 ・敗残兵の状態で虐殺されたと推定する。(南京防衛と中国軍)。表1からも、その数字は 納得できるのではないかと思う。





 残念ながら納得するのは無理なようです。
 なぜならば南京防衛軍 15万説は、すでに別のページで検証したように成立は難しいからで
す。南京防衛軍は総数で当初8万程度、(後方支援部隊・雑兵を含む)撤退時4万前後という
のが今のところ 最も信頼できる中国側研究と言えます。(譚道平参謀科長、当時南京防衛軍
作戦科の 責任者の推計が)。 また、撤退成功が確認された中国軍は「約3.5万」人。記録が
残っていない部隊のことを 考えると「4万〜5万」程度は南京戦で生き残ったと考えられます。
すると、笠原教授が主張するの「8万〜10万」というのはあきらかに過大ということになるでしょ
う。

 東京裁判では陥落時5万ということで決着しているのですから、あらたなる明確な資料が出
てこない限りは当初15万、陥落時8〜10万という笠原教授の独自推計に学術的な意味はあ
りません。15万説は資料がない部分を推計したものですから、資料の裏づけがあるとは言え
ないわけです。
南京防衛軍戦力推計002参照




 さらに表の赤字の部分は「長江渡河中殺戮」 と記録されていますが、これは中国軍の軍事
行動(撤退行動)であり、降伏している わけでもなく交戦中です。戦闘行動の一環である以
上、日本軍が不法に殺害したとの主張には無理があります。すでに笠原教授が明記している
ように、多数の中国軍が長江ルートで撤退に成功している のが現実です。撤退時の混乱は、
中国軍が渡河撤退用の船舶をきちんと運用 しなかった為です。その責任が中国軍にあること
は、当時の中国軍の36師長だった 宋希廉も指摘しています。





 なにはともあれ、笠原説の確定殺害数は「8万以上」ということですの
で、、長江渡河撤退作戦中の損害であるに1万8000程度はマイナスする
べきでしょう。すると笠原表から導きだされる殺害数は6万強ということ
になります。以下、「6万強」を念頭に置きつつ、笠原教授の文章を注意
深く検証してみよう。




笠原教授の解説分析

『中国兵および中国兵とみなされた民間人を、捕虜・投降兵・敗残兵・便衣兵として 殺戮・処刑したかの累計をこころみたのが表1である。』 
南京事件P223〜226 笠原教授

『捕虜、敗残兵の被虐殺者数(ここには民間人の男子も含まれている) の総数がかなりあきらかになることがわかるだろう。』
南京事件P223〜226 笠原教授



 以上のように、笠原表に現れるのは「中国兵」もしくは中国兵として誤認された殺害だけで、純粋な民間人・婦女子を狩り立てて殺害したというような事例はこの表には含まれないと考えている事がわかります。これは裏を返すと、日本軍が組織的に民間人狩りをやったということは記録にない、ということでもあります。






笠原教授の解説分析(2)

『もしも日本側の全連隊 の戦闘詳報がそろえば、捕虜、敗残兵の被虐殺者数(ここには民間人の男子も含まれている) の総数がかなりあきらかになることがわかるだろう。』南京事件P223〜226 笠原教授



 総数が明らかになるということは、必ずしも殺害数が増加するという意味ではないようです。というのは、中国軍の数には限りがあるからです。誤認以外の民間人殺害は戦果に計上されないことは笠原教授も認めているようなので、不明な資料が見つかることにより、むしろ笠原表の重複や過大見積りが判明し、総数では減少することもありえるわけですね。





ちょっと別の資料を見て見ましょう。


 

直接南京攻略戦に参加したのは、歩兵大隊数でいえば57大隊 であるが、そのなかで「戦闘詳報」や「陣中日記」が現存公開 されているのは16大隊についてだけである。
「南京難民区の100日」P221 笠原十九司

注 『歩兵大隊』とは通常約1000人編成の部隊であり、通常3ケ大隊で1ケ連隊を構成する。 1ケ歩兵連隊は約3500名。 1ケ師団は3ケ〜4ケ歩兵連隊と、騎兵、砲兵、工兵、輜重(輸送) などで編制され、人員は1.5万人から2.5万人である。

  大隊単位でいうと約3割ほどの資料しか残っていないようですが、大隊の戦果を集計した
連隊、師団の資料(指揮官の日記などを含む)は、ある程度残っているので、資料が揃えば若
干の増加はありえますが、「これまで判明している戦果が三倍になる」という性格のものでは
ありません。







笠原教授の解説分析(3)
『戦闘詳報の記録は一般に戦果を多く報告する傾向があるから、 この数字はあくまで
概数として扱うほかはない。』南京事件P223〜226 笠原教授


問題は、「概数」という部分ですね。概数の精度が問題になるといえます。10%程の
誤差なのか、2倍〜3倍ということもありえるのかによってかなり印象が変わってきま
す。






過大に報告される戦果

1.南京戦史(偕行社)P294
  阿南惟幾中将が第11軍司令官当時の日記(防衛研修所戦史部資料『阿南日記』 には「戦果に関する数字は慣例に従って3倍に計上した」という意味の記述がある。



2.本当はこうだった南京事件(板倉由明)P375-376
  歩45第11中隊は、退路遮断を命じられて揚子江(長江)東岸に沿って行動中 、12月13日早朝、上河鎮、新河鎮付近で 南京を脱出しようとする優勢な中国軍(兵力約4万と目算)と遭遇戦を演じ 大園中隊長以下戦死16、負傷36の損害をうけながら、これを撃退した。
(遺棄死体約6000と目算)
この時の光景を独立山砲第2連隊・中尉だった高橋義彦氏は「死体は枕木を敷き詰めたように 泥濘地帯を埋め……」と表現している。
この死体を15日に視察した第6師団長・谷寿夫中将は、凱旋後の軍状報告に「川岸一面死体をもって 覆われたる状態」(『機密日露戦史』原書房)と表現している。ところが この死体は谷師団長の『敵遺棄死体は過小報告されているようだから 至急死体数を調査せよ、という命令で、20日に再調査した結果、正確には 2377体であったという(福本続日記、宮園盛二証言『南京戦史資料集2』



3.本当はこうだった南京事件(板倉由明)P380-381
  元陸軍将校の親睦団体・偕行社の機関紙『偕行』昭和60年4月号の 「日露戦争30周年記念(昭和10年)に関する記事である。 明治33年の奉天会戦は日本軍の勝利となり、福陵の第4軍司令部(野津道貫大将) に、第一線で追撃中の各師団、旅団からおびただしい敵の捕虜の数や 捕獲兵器などの報告が殺到した。司令部には捕虜収容の為の臨時委員会が 作られていたが、刻々くる報告では捕虜の数は増えるばかり、 ついに9万近くになってしまった。
 そこで気を大きくした参謀連は、総司令部や大本営に10万と報告し
、委員会は歩兵2ケ中隊で以下にこの捕虜を扱うかに頭をひねる状態になった。ともかく一つの村に 大きな収容所を作ったが、我が軍の将兵にさえ不足の食料をどうするかが大問題になった。
 そうこうする中に、前線から続々捕虜が後送されてきたが、何と翌11日の正午頃までの 収容総人数は2万9000余名で、その後は ポツリポツリと少数しか後送されてこない。気が気ではないのが10万と報告した参謀たちで 、よく調査したところ、例えば激戦後の混雑で、白旗を振る捕虜の群れを各部隊が 自分の所得として、点呼もなしに概算で報告したらしく、誤算の集積によるものとわかった。



 簡単に解説すると、歩45連隊の事例は、死体数からの戦果推計の難しさを示した もので
す。 死体の数は、師団長クラスでも「過大に見積もってしまう」ということですね。 「目算で
6000の遺棄死体」という数値が、「実際の調査によれば2377体」 ということであり、この場
約2.5倍の誤差が発生していることになります。死体というのはそのインパクトから多めに感
じるものらしいです。2000程度の死体が散乱すると 「川岸一面死体をもって覆われたる状態」
に写るようです。南京事件の資料を読む場合は、人間の目算、特に死体数についてはかな
り過大に写るということを念頭におかなければならないでしょう。

 

 日露戦争の事例は戦果の重複報告の例ですね。
「実数3万弱」の捕虜が約3倍の「9万」と報告されており、 さらに現地司令部が若干水増しを
行い「10万」と大本営に報告しています。 これは通常の戦闘時でも起こりえることで 作戦
区が重複している場合、どの部隊の弾丸が命中したかは分かるはずもなく、 各部隊がそれぞ
れ(重複して)戦果を計上してしまうということもありえるということです。



   

 戦闘詳報や陣中日記に記された「戦果」とは、j実際に調査されたものばかりではなく、目測
によるものが多数を占めます。この場合、戦果報告は実数の二倍三倍に膨らんでいることも多
いので、これをそのまま正確な数値として考えるのは無理と言えます。つまり、笠原教授の言
う「概数」の精度も同様に2倍〜3倍の 誤差があると考えたほうがよいでしょう。 笠原表か
ら導き出された戦闘詳報その他の合計「中国軍虐殺6万強」は、 概数として考えると「実
数2万〜3万」ということも十分にありえるということです。



以下パートUに続く


笠原説の検証003
笠原説の検証003