「アメリカ大使館報告」
出展「南京事件資料集 アメリカ関係資料編」青木書店
39D南京の状況1937年11月27日 海軍無線 DJ EB 特殊グレイ文(暗号文)並びに平文電報 発信:南京 受信:1937年11月27日 ワシントン国務長官、漢口・北平米大使館、上海米総領事館宛 第963号 11月27日午後2時
1 南京市政府、電話局、水道局及び警察も、間もなくその業務を停止 する兆候が現れている。昨夜開かれた市政府関係者の会議(毎日定例になって いる)において、警察長官はもし「危急な事態」が起こった場合は、 まず最初 に警察が南京を離れ、次いで憲兵そしてそして最後に軍隊が離れることに なるだろうと述べた。 警察長官は、憲兵司令官も代行していたので(司令官は漢口で病気療養中の ため)同長官が出発すれば、憲兵も警察も指揮者なしで残されることになる。 今日の午前中、市長が私に別れの挨拶を(と思われる)をしに訪ねてきたので 、警察長官は自分だけが取り残されるのを心配している。 2 〜〜中略〜〜 (以下、平文) 3 市民の脱出は続いているが、市長の話では30万から40万の市民が まだ南京に残っているとのこと。 4 国務省へ送信。漢口、北京、上海へも転送。 アチソン (アメリカ資料編P90) |
解 説 ○この報告から、11/27の段階で南京政府がまだ機能していたことが読み とれ、毎日会議 が開かれていたことがわかる。会議においては「政府機関 の南京脱出」について協議されて いた。つまり撤退計画を協議していたのであり、当然 南京撤退の主要ルートである「長江」の 輸送力も南京市政府は把握していたと考えるのが 自然である。(そうでないと計画の立案が できない) ○推定人口は30〜40万人であり、11月23日の公文書に記載された 「50余万」から2割以 上の人口が減少していると推計している。これは「長江」の輸送力をもとに 推計したものだろ う。わずか4日間で10〜20万人が南京を脱出可能だったという 判断を、南京市政府が下して いたという史料である。
42D南京の状況1937年12月3日 海軍無線 CWA EB 特殊グレイ暗号文電報 発信:南京 受信:1937年12月4日 ワシントン国務長官、漢口・北平米大使館、上海米総領事館宛 第989号 13月3日午後2時
1 市長、衛生部長および前警察長官が南京を離 れた。以後防衛軍副司令官が 警察を統率することになったが、それは名目上だった。しかも司令部は、市か ら少し離れたところにあると思われる。安全区の行政や警備、糧食などに ついて準備が進行している。中国当局は状況が安定することを熱望していて 、現在、警察官や資金や大量の米を提供している。 外国人と中国人の関係者による会合が連日行われている。 2 多数の警察官が逃げ去ったが、市の秩序は保たれており、通過していく 軍隊や他の兵士間の秩序を維持するために一定の部隊が配置されている。 軍隊が私有財産を利用するケースについては、防衛軍司令部から適切な統制が 行われている。 すべての城門は土嚢で閉鎖されているが、中山門と長江岸へ通じる 邑江門および舞湖に向かう南門(中華門=訳者)の3つは部分的に開いている。 3 国務省へ送信。漢口、北京、上海へも転送。 アチソン (アメリカ資料編P92〜93)
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解 説 南京市の政府機関はその機能を停止しつつあり、防衛軍が警察機構を引き継ぎ と「安全区委 員会」に「行政や警備、食料供給」などの権限が委託されつつあ ることがわかる。 この食料供 給は20万と予想される難民の為であるから、この12月3日の段階でも難民予想数は20万程 度だったということだろう。この予想を覆すような、大量の難民が流入したと言った事態が発生 していない証拠でもある。ほとんどの城門は閉鎖されているが城外への通行はまだ可能であ る。
43D南京の状況1937年12月4日 海軍無線 RMT EB 特殊グレイ暗号文電報 発信:南京 受信:1937年12月5日 ワシントン国務長官、漢口・北平米大使館、上海米総領事館宛
第993号 12月4日正午 大使館電報第989号(12月3日午後2時発信)に関して。
1 警察業務に携わる警察官の数は減少しているように見えるが、憲兵や兵士 で編成された部隊が市内を巡回している。市の南部では若干の市民が武器を手 にいれた。大使館付近に掘られた塹壕については、中国軍当局からいわゆる 安全区委員会に対して、工事を中止する旨の約束があった。 下関地区では脱走兵が略奪をやったことが報告されている。 長江岸へ通じる邑江門は混雑している。 おそらく今日行われた南京城内に対する爆撃(大使館電報第994号、12月4日 午後一時発信を参照)によって流出者はさらに増えることになろう。蒋介石夫妻および 市長はまだ南京にいる。 2 伝えられるところによれば、中国軍は鎮江〜丹陽を結ぶ線を離れて、句容 からそう遠くない地点まで退却したとのことである。大使館は本日、アメリカ に対する予防措置として、警告がありしだいパナイ号に乗船できる用意をして おくように注意しておいた。 3 イギリス側の情報によれば、今朝、鎮江において中国軍が略奪をはたらい ていたとのことである。おそらく日本軍が付近に進撃中との情報が伝えられた 結果と思われる。 4国務省へ送信。漢口、北京、上海へも転送。 アチソン (アメリカ資料編P93)
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解 説 避難路である「長江=揚子江」の港に避難民が集合している。 つまり「11月27日の人口30 〜40万」からさらに人口は減少している と考えてよいだろう。 また、爆撃により、さらに流出 者が増えると予測されている。 その一方で「大規模な難民流入」の報告はない。
44D南京の状況1937年12月7日 海軍無線 DJ EB 特殊グレイ暗号文電報 発信:南京 受信:1937年12月7日午後2時 ワシントン国務長官、漢口・北平米大使館、上海米総領事館宛
第1007号 12月7日午前11時 大使館電報第1004号(12月7日午前7時発信)に関して。
1 市長はまだ南京にいた。かれはもっぱら、いわゆる安全区に関する仕事 のために残っているように思われる。昨日は、安全区に入る難民のゆるやかな 人波が終日続いた。難民のほとんどは貧しい階級の婦女子あるいは子供たち である。 2 昨日、イギリス大使館の書記官が、イギリス商社の大型ボートに乗って ジャーディン・ハルクへ戻る途中、サンバンに乗った二人の中国兵に大声で 呼び止められたが、これを無視したため発砲された。 下関区とイギリス大使館近くの村で略奪を行った科で、6人の兵士 が昨日処刑された。その他、城外で中国軍が砲撃しやすいようにと周辺一帯の 村を焼き払ったために混乱が発生しているものの、市内は概して平穏である。 しかしながら、句容を占領した日本軍の先遣隊が寧抗公路を湯山にわずか 2/3マイルの地点に達していることを、昨夜アメリカ人記者が伝え、 それを今朝の中国紙が報道したので、今後ある種の混乱が広まるものと 思われる。今朝早く、おそらく中国軍のものと思われる砲声が聞こえた。それ は湯山に近い方角で、何回か一斉射撃が行われたものらしかった。 3 郵便の配達業務は今日で止められたが、下関郵便局では発送については まだ受け付けている。 4 イギリスからの情報によれば、鎮江の中国軍は組織的に市を略奪し、放火 しているとのこと。 国務省へ送信。漢口、北京、上海へも転送。 アチソン (アメリカ資料編P93〜94)
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解 説 まず難民区に住民が集まり始めたのが12月7日であることと、難民の多くが 「貧困層の女性 や子供」だった事が記されている。 断言は避けるが、この時点で安全区に集まった人々の大 半は「住むところが無い」 人々であると思われる。つまり「焦土作戦=清野作戦」により強制的 に 立ち退きを命じられ、中国軍により家を焼かれた人々や、上海方面からの 難民が中心であ ろう。その数はあまり多くはなく(2〜3万?)ゆるやかな 速さで安全区に集まったようだ。つま り、南京城内に住居をもたない難民の数はさほど多くなかったということが解る。安全区 に避難した住民の大半は、南京城内部に住居をもっていた人々であるということを間接 的に示唆している。
中国軍による「焼き払い=清野作戦」の様子は 「南京事件の日々=ミニーボートリン日記」 や「南京の真実=ラーべ日記」他 当時の新聞記事など数多くの記録が残っている。
また、中国軍が撤退時に掠奪を、放火をしていることが記されている。
47D南京の状況1937年12月8日 海軍無線 HC EB 特殊グレイ暗号文電報 発信:南京 受信:1937年12月9日午前9時 ワシントン国務長官、漢口・北平米大使館、上海米総領事館宛
第1015号、12月8日午前10時
1 市長はすでに去ったと確信される。数日前から我々のところに地方当局と の折衝を援助するといってやってきた二人の下級外交部職員も、今はどこかへ 消えてしまったようだ。邑江門を通って江岸に出て行くのは今も容易であるが 、中国人はそこから城内に入ることは許されていない。昨夜警官が、城壁の外側 下関地区の家々を一軒一軒回って、長江を渡って浦口へ行くように警告して 歩いた。 2 郊外の家々を焼き払う煙が南京の上空ならびにあたり一面に漂い、空気が 霞んでいる。昨日の午後、私とロバーツが湯山道路の孝陵衛を通ったところ、 みすぼらしい家々がすべて焼かれていた。全村が火の海で、かろうじて本道だ けを車で通過することができた。南京に近い陵園区の藁葺の家は焼かれていた が、孔祥熙や孫科などの邸宅は明らかに焼却対象から外れていた。 昨夕、中華門外の舞湖道路を数マイルドライブして見たところでは、この道路 沿いの清野作戦(家々を焼却して戦闘の準備をする)はまだ上記のような段階 には達してない。 3 〜中略〜 4 国務省へ送信。漢口、北京、上海へ転送。 アチソン (アメリカ資料編P95〜96) |
解 説 概ね12月8日夜間をもって「すべての城門は閉じられた」と考えてよい。 唯一の例外が邑江 門である。(裏門=北門=下関門=邑江門) これは「長江=揚子江」につながる脱出通路に なるためで、邑江門が完全に閉鎖 されるのはまだ先のことである。ただし「中国人の入城は 制限」されていた ようだ。 警官が下関地区の住民を「強制的に退去」させている。この後下 関地区は 中国軍の手によって焼かれることになる。
50D 南京のアメリカ人の保護 海軍無線 EB 平文電報 発信:南京 受信:1937年12月9日午後10時 ワシントン国務長官、漢口・北平米大使館、上海米総領事館宛
第1024号 12月9日午後4時
上海総領事館宛電報第1114号(12月8日午後5時発信)ならびに私の 第1019電報(12月9日午前9時発信)と第1021号(12月9日午後10時発信) に関して。
1、上海電報第1114号の内容は、今日の午後中に南京残留すべてのアメリカ人に対して伝えた 。同時に危急の際はこれらのアメリカ人に適切な保護と便宜を与えるようにという要請を付けて、 、彼らの名前と住所のリストが日本当局に渡されていることも伝えておいた。 2、午後になってすぐに、光華門一帯に相当な爆弾が落とされ、そのうち いくつかは明らかに市内に落とされた。これより先、2発の爆弾が下関区に 落とされた。 3、中国軍当局が、江岸へ通ずる邑江門をいつでも閉鎖できるようにしたい と強く要求しているため、我々は残留するアメリカ人に同行する機会と 時間を与えた後、午後3時にパナイ号に戻った。我々に同行したのは イギリス大使館のプリドゥ−ブルーン(Prideaux-Brune)と 『ロンドンタイムズ』記者のマクドナルドだったが、彼らはのちにイギリス 大使館の宿舎になっている英国軍艦スカラブ号へ移っていった。 我々が邑江門を通過した時、門を土嚢で封鎖する作業が進められており また城外の下関の広い範囲と城壁の近くが焼き払われていた。 我々がパナイ号に着いた直後に、浦口で水辺にしこたま爆弾が落とされ 、小さな駅の一つに爆弾が命中して建物が燃え出した。我々の向かい側 の水中にも爆弾が3つ落ちた。対空砲の砲弾がパナイ号からわずか200 フィートほどの水中に落ちたので、同号はアジア石油会社の施設(市内の アメリカ人が避難することを決意し、それが可能であった場合はそこから乗船 することになっていた)から三沙河へむけて2マイルほど上流へ移動した。 現在三沙河にいる英国艦スカラブ号とクリケット号は午後5時には1.5マイル ほど上流のジャーディン・ハルクのあるところへ移動するという。 4、国務省へ送信、漢口、北京へ転送。上海から日本当局へパナイ号の位置 を知らせてください。北京から東京へ転送されたし。 アチソン (アメリカ資料編P98〜99)
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解 説 下関が焼き払われ、邑江門が封鎖されつつある様子がわかる。邑江門の封鎖は土嚢を積ん で行なわれたようだ。日本側の史料(南京戦史)でも陥落後の邑江門は土嚢で封鎖され ていたとなっている。余談だが、笠原教授の著作「南京事件」岩波新書では、中国軍の戦車が 門を突破したというようなことを記しているが、当時の中国軍の戦車にはいわゆる大砲は装備 されておらず、7.7ミリ機銃が主武装だったので、土嚢で封鎖された門を突破するのは無理で あると思われる。中国兵は門がしまっていたので衣服を利用した簡易ロープなどで門を越え た。その簡易ロープの様子は第三国の新聞記者(スティール)が写真に収めている。
つまり、陥落時の大量の市民が、(戦車が邑江門を突破した後)邑江門を通って下関に集結し、日本軍に掃蕩されたという説は、史料との整合性がない。日本軍占領時邑江門は封鎖されていたようである。
53D 南京の状況−12月11日 グレイ暗号電文 発信:南京、海軍無線局経由 受信:1937年12月11日午後8時9分 ワシントン国務長官宛
第1036号 12月11日午後6時
1 今日の午後、市の南部および光華門の内側に、砲弾が激しく 撃ち込まれていたが、午後になるとさらに街中に向かって撃ち込まれ るようになった。砲弾は一発は福昌ホテルの前の中山路に落ち、 約50人が殺された。一発はホテルの後ろに落ちた。そして一発は 五台山地区のアメリカ聖書教師養成学校 (American Bible Teachers Training School)に落ち、施設に少し 損傷があった。 大使館付近と同構内にある高射砲を狙って爆撃と砲撃が行われているが 、同構内は中国人で一杯だという。 ある外国人の目撃者は、日本の部隊はおそらく今日の夕方までに、 光華門を強行突破するだろうと予告している。 2、今日の午後、下関地区に新しい火災が発生し、北に向かって延焼 している。昨夜の火事は川下に向かったため、浦口のフェリー客船用の 桟橋は今日のところまでそのまま残っている。浦口の主要な建物 には、今日の爆撃による被害は無かった模様である。 3、今日の午後、市外との陸上電話の回線が破壊された。 電気と水道の業務は機能するのを止めていると報告されている。 今日の午後、パナイ号が移動する前に我々は、警察官が川岸で渡江して 避難する準備をしているのを見た。その後、数百人の警察官が同じ目的 で下関区へなだれ込むのを目撃したから、もはや市内に警察官はいない のではないかと思われる。 4、国務省へ送信、漢口・北平・上海へ転電。北平は東京へ転電されたし。 アチソン (アメリカ資料編P101〜102) |
解 説 電気と水道が止まった。 数百人の警察官が長江を渡って避難をしているが、 船を待つ難民の 目撃描写がないところから、この時期、難民の避難はほぼ終了していると 考えてよいだろ う。
以上、南京陥落前の主だった報告を抜粋した。 54D(12月11日午後2時)では、日本軍が光華門に迫り砲撃が激しさを 増している様子が報告 され「下関門はまだ開いている」と記されている。 55D(12月12日午前11時)では、日本軍の一部が南京城内部に侵入したことが 記され、 「いくつかの部隊は長江を渡って浦口へ撤退したにもかかわらず、 中国軍の抵抗は強力であ る」と報告されている。
56D 包囲された中国軍 JR グレイ暗号文電報 発信:上海、海軍無線局経由 受信:1937年12月13日午前10時35分 ワシントン国務長官宛
第1143号 12月13日午後4時 私の第1122号電報(12月9日午後5時発信)参照。 日本軍は蕪湖を占領し、そして浦口を占領したことによって、長江を除いて 南京からの脱出路を絶ったと主張している。日本側の報告によれば、日本軍は 南京の城壁の南と中華門の西を占領し、城壁を突破すべく戦っているところだという。 日本軍はまた、昨夜照明に助けられて、空から集中的に南京を爆撃したこと、ならびに 中国軍部隊は小さな動力船とジャンクに乗って長江上を退却中であるとの主張をしている。 漢口・北平に転電。 ガウス (アメリカ資料編P103) |
145D 南京アメリカ大使館通信---エスピー報告 1938年Vol.14 1938年1月25日 南京
南京の状況 在漢口アメリカ大使ネルソン・T・ジョンソン宛 1937年12月13日、日本軍の南京占領以来の状況についてのエスピー副領事の報告を、 ここに慎んで提出いたします。報告内容は大使館スタッフの調査、および南京陥落以来当地に 残留しているアメリカ人の記述に基づくものであります。 報告に含まれているのは、勝利に輝く日本軍の南京入城の時から市に発生した事件、 市の現状に関する観察、及び、日本占領の影響を改善する為のアメリカ住民ならびに 「南京国際委員会」の仕事の概要、さらに、市内における人命及び財産を保護する彼らの 尽力に関するものです。 敬具 ジョン・M・アリソン三等書記官
報告書作成 1月15―24日 郵送 1938年2月2日
T 南京の状況---エスピー報告 1938年1月 〜〜以下約8000字から抜粋〜〜 〜略〜建物の損傷は公文書保管室の扉が銃剣により傷を受けている以外は見当たらない。 大使館に残されたアメリカ人職員の所有物にも異常がない。〜略〜 〜略〜彼らの話によると、日本軍の占領により、南京には恐怖政治ともいえる統治が開始された。 彼らやドイツ人の話によると、南京市は餌食として日本軍の手に落ちたが、組織的戦闘の 経過の中で陥落したばかりではなく、制限のない略奪、暴行を競い合っているような 侵入軍の手に落ちたのだということを物語っている。詳細の情報や我々の観察によっては 、彼らの情報を否定する事実は見当たらない。市内に留まった民間人は、いわゆる安全区 に殺到した。多くが難民である。男女子供の死体、略奪破壊跡、住宅やビルの焼失・破壊 など、証拠はいたるところに見られる。 〜以下略〜
1 12月10日後の南京の状況 南京の陥落を前にして、中国軍と市民の脱出は引きも切らなかった。 人口のおよそ5分の4が市を脱出し、主要な部隊は武器・装備もろとも 撤退していった。南京の防衛は、わずか5万の兵士に任されていた。 さらに、このうちかなりの兵士が、南京陥落後に北門、西門、および 城壁を越えようとしたり、また退却中に日本軍と戦いながらの逃走を こころみた。 中国軍は軍事上の必要から、障害物などを除去するため、城外の広い範囲に 放火した。しかし、退却中の中国兵による城内での放火・破壊・略奪等はほとんど無かった、 とアメリカ人らは強調した。 それゆえ、日本軍が南京に入城したとき、実際には南京は無傷のままであった。 住民の5分の4は逃げ去っていたが、残留した者の大部分は、南京安全区国際委員会が 設定しようとした、いわゆる安全区に避難していた。日本軍は多数の中国兵を補足 するはずだったが、比較的少数の中国兵しか補足されなかった。市内に残った 中国兵の数は把握されていないが、軍服を脱ぎ捨て、市民の服に着替え、市民に混入 したもの、ないしはどこかに潜んだ者は、数千人はいたにちがいない。 日本軍はどのくらいの中国兵が逃亡をしたのか把握していなかったのではないか、というのが アメリカ人の感触だった。城内にいる中国兵の「掃討作戦」では、補足できる兵士の数は10万は くだらない、と日本軍は見ていたようだ。そして中国兵を根こそぎ補足しようと市内を隈なく捜索 し、思いのほかその数が少なかったときの彼らの憤りや不信感が、兵士だけでなく、多くの罪もない 市民を巻き添えにして、テロ行為にかりたて、長期にわたる「掃討作戦」を強行することになったのではないかと思われる。 しかしながら、ここで触れておかなければならないのは、中国兵自身も略奪とは無縁でなかったことである。 彼らは少なくともある程度まで、略奪に責任を負っている。日本軍入城前の最後の数日間には 、疑いもなく彼ら自身の手によって、市民と財産に対する侵犯がおこなわれたのであった。 気も狂わんばかりになった中国兵が軍服を脱ぎ棄て市民の着物に着替えようとした際には 、事件もたくさん起こし、市民の服欲しさに、殺人まで行った。 この時期、退却中の兵士や市民までもが散発的な略奪を働いたのは確かなようである。
〜中略〜
外国人目撃者の話によると、南京を冒涜する野蛮な盗賊同様に、日本兵は欲しいがままに振舞った。 市内では数え切れないほど大勢の男性、女性、子供が殺害された。 理由もなく市民が銃殺、刺殺されたと聞かされている。
〜中略〜
U 南京の現状 (以下約7000字から抜粋) 南京の実情 〜略〜 城内で最も被害が大きかったところは、南部の商業地域であった。この地域が正常の 機能を取り戻すためには、ほとんど全てを再建する必要があるだろう。太平路、 中山路、中華路などのような新しい主要な大通り、その他主な通りに面する建物は 、ブロックごとに11〜12件がほとんど焼失している。中山路だけに関して言うと 、商店、商館が放火されたようだ。国民政府関係の建物では、交通部が日本軍の南京占領 以前に火災で倒壊しただけで、その他の建物は異常なく、現在日本軍が使用している。 そのほか南京の住宅、建物に関しては、貧民階級の建物も同様に。間隔を置き放火されている。 市の北端の住宅街は放火の被害は最も少ない。前述の「安全区」に関して言えば、火災は一軒も 起きていない。 水道、電気は市内のほとんどの地域で復旧した。電話の回復もそう難しいことではないだろう。 瓦礫の山は、通りから片付けられた。市の衛生設備は整ったが、池や建物外の死体は、今後も 引き続き処理する必要がある。 〜以下省略〜
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解 説 いわゆる「エスピー報告」である。 この報告は東京裁判において検察側(中国側)証拠として提出された。 この文書は東京裁判 において重要な役割を果たしている。「町は5万を超えざる兵数にて守らる、ことと居れり。 実際僅かに唯の5万に過ぎざるなり。」 (日中戦史資料集 東京裁判資料編P151) この部分は判決文でもほぼ採用され、南京防衛軍5万説の根幹を担っていると言える。 東京 裁判当時の中国も恐らく、南京陥落時の兵力をおよそ5万と見ていたらしい。 異論があれば中 国側から何らかの資料が提出されたはずである。 また、1983年8月に発行された『史料選輯(侵華日軍南京大屠殺史料専輯) 代第四輯(内部 発行)』日本語訳「証言・南京大虐殺」戦争とは何か(青木書店)においても「残留軍していた5 万の軍隊は別々に南京の北門と西門から退却した」(同書P15) とエスピー報告と同様の記述 をしている。
東京裁判では、検察側が証拠として提示した、エスピ ー報告に記載された「人口のおよそ5分の4が市を脱出」 の部分(約20万を暗示した部分)は全く無視され、「100 万住民の半数以下」という認定をしたことは大きな問題 と言える。
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