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佐々木倒一少将私記の検証

「佐々木私記と戦闘詳報」
 佐々木私記も南京問題では引用されることが多いのですが、長文の為細切れに引用されることが多いので、ちょっと長めに引用してその全体像を検証してみましょう。ここで引用した部分は12月13日の記述全体の60%ほどです。まとまった引用は下記を参照していただいて、ここでは部分的に抜粋して解説します。







佐々木倒一少将私記


 以上は一局部の紛戦状況であるが、後に各部隊の報告を総合して夜半より午前十時頃に至る間の戦況を述べるならば、払暁前我が第一線は敵陣地に突入し続て敵を急迫し、軽装甲車中隊午前十時頃先ず下関に突進し、江岸に蝟集し或いは江上を逃れる敗敵を掃討して無慮一万五千発の弾丸を撃ち尽くした。この間歩三八は城北に面する五個の城門を占領して敵の退路を絶ち、連隊長は三三の大隊と共に装甲車に追及して西面邑江門付近に進出し、逃げ遅れた敵兵と戦闘を交えた。


 まず、装甲車隊の下関突入は「午前10時」と記しています。歩兵38連隊の戦闘詳報では「午前一時四十分〜」となっていますが、これは真夜中ですから誤記と考えてよいでしょう。「南京戦史(本編)」ではこれを”午後”と解釈し「13時40分」頃突入としています。(資料の相違点には言及が無い)。以降、南京戦史から戦況を引用した書籍は13時40分をそのまま転載しているようです。(詳細は下記で解説)








佐々木倒一少将私記


 司令部は予備隊たる歩兵一中隊を以って左後方より突撃し来る前後数回の敵と激戦を交へ、通信手、輜重兵、伝騎に至まで戦線に加入敵を撃退し、その後方を追及しつつ道路の不良に悩みつづけた野砲兵大隊は是又夜間敵の襲撃を受け援護の歩兵一中隊、工兵一小隊と共に零分割射撃以って敵に応戦、四時間の久しきに亘って戦闘。更にその後方には後衛として残置した歩兵ニ中隊が夜半以降又ニ方面より反復殺到する敵の大部隊と戦闘してこれを撃滅した。


 これは12月12日深夜から早朝にかけての記述で、司令部がわずか一ケ中隊の防衛力しかなく、後方から追随していた野砲兵大隊も襲われるというかなりの激戦をしていたことが判明します。







佐々木倒一少将私記


 人二百馬六十の損害を被るが如き失態を演じている。此騎兵も又その後方に在った重砲も盛んに増援を請うてきたが自衛力を有するものを顧みる遑はなかった、蓋し予の部隊は数里の長きに亘って延伸し側面に対して至る処激戦を交えている状態だったからである。


 佐々木支隊の苦戦の原因は伸びきった戦線にあったようで、場合によっては確固撃破され、司令部全滅という可能性もあったということでしょう。「人二百馬六十」の損害を出したのは「後方衛生隊附近」、つまり本来は戦場になるとは想定していない場所で奇襲を受けたことを意味します。







佐々木倒一少将私記


 前述する如く午前十時我支隊の軽装甲車が最初に下関に進出して完全に敵の背後を絶ち又我歩兵は北面の城門全部を占領封鎖して敵を袋の鼠とし、少し遅れて第六師団の一部が南方より江岸に進出し、海軍第十一戦隊が遡江して流下する敵の舟筏を掃射しつつ午後二時下関に到着し、国崎支隊は午後四時対岸浦口に来着した。其他の城壁に向かった部隊は城内を掃蕩しつつある。実に理想的の包囲殲滅戦を演じているのであった。
 此日我支隊の作戦地域内に遺棄された敵屍は一万数千に上りその外、装甲車が江上に撃滅したもの並各部隊の俘虜を合算すれば我支隊のみにて二万以上の敵は解決されている筈である。(筆者注 17時半頃までの戦果)
 午後二時頃概して掃蕩を終わって背後を安全にし、部隊を纒めつつ前進和平門に至る。 その後捕虜続々投降し来り数千に達す、激昂せる兵は上官の制止を肯かばこそ片はしより殺戮する。多数戦友の流血と十日間の辛惨を顧みれば兵ならずとも「皆やってしまへ」と云ひ度くなる。
 白米は最早一粒もなし、城内には有るだろうが、俘虜に食はせるものの持合せなんか我軍には無い筈だった。
 和平門の城壁に登って大元帥閣下の万歳を三唱し奉る。此日天気快晴、金陵城頭到る処旭日旗のへんぼんたるを見て自然に眼頭が熱くなった。
 中央門外に舎営、美しき寝台あれど寝具なし、南京米を捜し出してくる。(今夜はゆっくり睡られるぞ)


 ここは有名な部分です。
 記述の整理をすると、この日の作戦地区(城門占領を含む)における総合戦果が約2万であり、遺棄死体が一万数千ということになります。

≪佐々木支隊命令(右側支隊命令) 12月13日 午後5時35分 於 南京和平門外 一、敵は全面的に敗北せり 支隊は和平門を以西の各門及び下関を占領し敵の逃出を完全に閉鎖せり 『南京戦史資料集P545』


 というように17時半頃には戦闘が終了しているという認識ですから、2万の戦果も午後5時半(17時半頃)までの戦果が全て含まれると考えてよいでしょう。





 当時の南京は午後5時になれば日は落ちます(宋希漣手記)から、問題の捕虜数千が投降してきたのは、5時より前ということになります(和平門での万歳よりも前)。するとこの数千の捕虜についても総合戦果2万、「遺棄死体一万数千」に含まれていると考えられます。つまり、引用した前半分は当日における全般的な作戦行動の回想であり、捕虜殺害の記述以降は、佐々木少将が実際に体験した行動の記述ということになります。言い換えると、支隊の総合戦果は2万で、佐々木少将直下の戦果が捕虜数千ということになります。






佐々木私記
12月13日
(略)
 午前八時頃ふと目を醒ませば至近の距離に激烈な銃声がしていて、通信手や行李の輜重兵特務兵までが銃を執ってばたばたやっている。
「何事だ?」
野外を走りかけた副官に尋ねる。
「今撃退したところです、紫金山から真っ黒になって降りてきました」
「敗残兵か?」
「チェックを腰だめで撃ってくるのです、それが何回も何回も五六百一ケ所になって」
「鉄砲を取り上げろ」
「降伏なんかするもんですか、皆殺しです」
くるわ、くるわ、あっちにもこっちにも実に夥しい敵兵である、彼等は紫金山頂に在った教導師の兵で血路を我が支隊の間隙に求めて戦線を逆に討って出たものであった。銃声の間に怒号罵声すら聞こえている。
 家屋に立て籠っていつまでも抵抗するもの、いち早く便衣に替えて逃走を計るもの、そして三々五々降伏する者は必ず池の中に投じ或いは家の中に投げ込んで放火していた。この点は実に徹底していた。当面の敵は蒋介石が虎の子のようにしていた師団だけあって最後迄最も勇敢に戦ったようである。

 以上は一局部の紛戦状況であるが、後に各部隊の報告を総合して夜半より午前十時頃に至る間の戦況を述べるならば、払暁前我が第一線は敵陣地に突入し続て敵を急迫し、軽装甲車中隊午前十時頃先ず下関に突進し、江岸に蝟集し或いは江上を逃れる敗敵を掃討して無慮一万五千発の弾丸を撃ち尽くした。この間歩三八は城北に面する五個の城門を占領して敵の退路を絶ち、連隊長は三三の大隊と共に装甲車に追及して西面邑江門付近に進出し、逃げ遅れた敵兵と戦闘を交えた。司令部は予備隊たる歩兵一中隊を以って左後方より突撃し来る前後数回の敵と激戦を交へ、通信手、輜重兵、伝騎に至まで戦線に加入敵を撃退し、その後方を追及しつつ道路の不良に悩みつづけた野砲兵大隊は是又夜間敵の襲撃を受け援護の歩兵一中隊、工兵一小隊と共に零分割射撃以って敵に応戦、四時間の久しきに亘って戦闘。更にその後方には後衛として残置した歩兵ニ中隊が夜半以降又ニ方面より反復殺到する敵の大部隊と戦闘してこれを撃滅した。
 更にその後方衛生隊附近に集成騎兵団が位置していたが、暗黒の裡に敵の襲撃を受けて部落内に突入せられ、人二百馬六十の損害を被るが如き失態を演じている。此騎兵も又その後方に在った重砲も盛んに増援を請うてきたが自衛力を有するものを顧みる遑はなかった、蓋し予の部隊は数里の長きに亘って延伸し側面に対して至る処激戦を交えている状態だったからである。
 午前十時頃、我左翼援護の為高地上に位置せしめた中隊の陣地に対し後方から重砲の試射らしき数弾が飛来し、続いて効力射に移り、あれよあれよと兵隊が騒いでいるうちに三十余発の砲弾を集中した。山頂は爆煙に被われて此部隊の損害が目に見えるような気がした。血迷った我重砲が味方撃ちをやったのであるが、幸に背嚢一個ふっ飛ばされたのみ。因に此中隊も山の上から敵の背後を攻撃している。

 前述する如く午前十時我支隊の軽装甲車が最初に下関に進出して完全に敵の背後を絶ち又我歩兵は北面の城門全部を占領封鎖して敵を袋の鼠とし、少し遅れて第六師団の一部が南方より江岸に進出し、海軍第十一戦隊が遡江して流下する敵の舟筏を掃射しつつ午後二時下関に到着し、国崎支隊は午後四時対岸浦口に来着した。其他の城壁に向かった部隊は城内を掃蕩しつつある。実に理想的の包囲殲滅戦を演じているのであつた。
 此日我支隊の作戦地域内に遺棄された敵屍は一万数千に上りその外、装甲車が江上に撃滅したもの並各部隊の俘虜を合算すれば我支隊のみにて二万以上の敵は解決されている筈である。
 
 午後二時頃概して掃蕩を終わって背後を安全にし、部隊を纒めつつ前進和平門に至る。
 その後捕虜続々投降し来り数千に達す、激昂せる兵は上官の制止を肯かばこそ片はしより殺戮する。多数戦友の流血と十日間の辛惨を顧みれば兵ならずとも「皆やってしまへ」と云ひ度くなる。
 白米は最早一粒もなし、城内には有るだろうが、俘虜に食はせるものの持合せなんか我軍には無い筈だった。
 和平門の城壁に登って大元帥閣下の万歳を三唱し奉る。此日天気快晴、金陵城頭到る処旭日旗のへんぼんたるを見て自然に眼頭が熱くなった。
 中央門外に舎営、美しき寝台あれど寝具なし、南京米を捜し出してくる。(今夜はゆっくり睡られるぞ)




戦闘詳報との比較




歩兵38連隊戦闘詳報 
前衛命令
12月13日午後2時 於 紅山西側高地 (抜粋)
一、前面の敵は各方面に退却せり
       〜略〜
三、歩兵第33連隊第一大隊は現在の地点を確保すべし
四、歩兵第38連隊第一大隊(第一第三中隊欠)は下関方向に敵を追撃すべし
       〜略〜
七、軽装甲車隊は下関方向に敵を追撃すべし
      〜略〜


6 南京城を固守せし有力なる敵兵団は光華門其の他において頑強に抵抗せしも、各部隊の猛撃により著しく戦意を失い続々主として下関方面に退却を開始せしも、前衛は先ず独立軽装甲車第八中隊をして迅速果敢なる進撃を行い午前1時40分頃渡河中の敵5〜6千に徹底的に大損害を与えてこれを江岸および江中において殲滅せしめ、次いで主力をもって午後3時頃より下関に進入し同日夕までに少なくとも 500名を掃討し尽くせり。
 
南京戦史資料集P585 (原文は句読点等はなし)


  この記述によれば、最初に軽装甲車隊が下関に突入して、渡河中の敵に5000以上の損害を与えたのが(午前を午後と解釈して)13時40分ということですから、軽装甲車隊は少なくともその前には到着していたと考えられます。佐々木私記によれば午前10時頃には突入していたようです。(軽装甲車中隊は通常装甲車17両程度の編成)。追撃命令が出たのが14時で、歩兵38連隊の主力と共に下関の掃蕩戦を行ったのが15時頃。戦果は約500ということです。
(軽装甲車中隊の戦果五〜六千が歩38の詳報に記述されていることから、後段の掃討戦の戦果500にも軽装甲車中隊の戦果が含まれると考えられます)











歩兵33連隊『南京付近戦闘詳報』
其6、12月13日の行動
1.戦闘経過の概要
(略) 

 連隊は午前九時三十分十六師団作命甲第一七一号を受領し、一部を以って太平門を守備せしめ主力は下関方向に前進して敵の退路を遮断すべき命を受け午前十時半出発。第二大隊(二中隊欠)を前衛とし太平門―和平門―下関道を下関に向かい前進す。而して進路の両側部落には敵敗残兵無数あり之を相当しつつ、前進を継続せり。
 午後二時三〇分前衛の先頭は下関に達し前面の敵情を捜索せし結果、揚子江上には無数の敗残兵船筏その他あらゆる浮遊物を利用し江を覆って流下しつつあるを発見す。即ち連隊は前衛及び速射砲を江岸に展開し江上の敵を猛射する事二時間、殲滅せし敵二千を下らざるものと判断す。  

南京戦史資料集P601 (原文は句読点等はなし)


 歩兵33連隊が14時30分ころ下関に到着し『敵情を捜索』した結果、揚子江撤退中の敵兵を主目標として考え、夕方まで射撃を加えています。











歩兵38連隊戦闘詳報
前衛命令 12月13日午後7時 於 下関
一、敗残の敵は尚付近に徘徊す
     〜略〜
(五)戦闘後における彼我の形成の概要
敵の敗残兵の一部は南京城内に在るものの如く大部は下関に圧迫したる。敵は其の退路を失し我に殲滅せられたるも極少数の敵は揚子江を浦江に渡河して敗走せるが如し。下関に圧迫せし敵は少なくとも二万を下らざるが如し。
     〜略〜
 (2)各部隊武功特に抜群なるもの
 第一大隊
 第一中隊  
 独立装甲車第八中隊

南京戦史資料集 P586 (原文は句読点等はなし)

 これは、記述内容と19時という時間から考えると、12月13日の戦闘終了後戦果集計が終了した時点での記述ということになります。当日の作戦地域内から排除した敵兵力(戦果を含む)が2万を下らないという判断ということでしょう。


 別の解釈として、下関に追いつめた敵兵力が2万以上。つまり下関だけで2万程度の戦果があった、という解釈もこの文面だけをみると可能のようですが、他の記述(戦闘詳報など)と比較すると、ちょとこの解釈は難しいようです。下関での戦果は長江渡河中の敵兵に対する射撃戦果が(歩33、38合計)で7000〜8000。下関の陸上戦果は、歩38と装甲車中隊の掃討戦の戦果は約500。歩兵33連隊については下関に限定した戦果は不明ですが、12月13日の総計で5500。(捕虜の処刑約3100を含む)ということなので、これを全部合計しても2万には届きません。



 つまり、下関だけで2万の戦果という読み方は成立しないと考えてよいでしょう。



 下関で大規模な戦闘があったという記述もなく、捕虜を確保したという記述も無く、装甲車中隊や歩兵33連隊が渡河中(あるいは揚子江岸辺にいた)敵兵力を主目標としたという事実から推測すると、渡河計画中の敵兵以外にはさほど大規模な中国軍は存在しなかったと考えられるので、下関に限定下した戦果は、1万程度と考えられます。該当資料は歩兵38連隊における12月13日の最終報告(五)戦闘後における彼我の形成の概要ですから、下関以外における戦果も当然含まれると考えられます。





 佐々木支隊の12月13日の総合戦果は戦闘詳報によれば2万前後、と判断して問題ないでしょう。これには捕虜の殺害も含まれるということです。






 佐々木私記の記述≪此日我支隊の作戦地域内に遺棄された敵屍は一万数千に上りその外、装甲車が江上に撃滅したもの並各部隊の俘虜を合算すれば我支隊のみにて二万以上の敵は解決されている筈である≫。「解決」というのは、戦果を含めて当日の作戦地域内から排除した敵兵力が「2万以上」という意味のようです。




 問題なのは「遺棄死体が1万数千」という部分ですが、日本軍では戦果を「遺棄死体」と表現することが多いので、「長江渡河中の戦果」を遺棄死体として表記したものと思われます。戦闘詳報では江岸および江中において殲滅≫というように、岸辺での戦果(遺棄死体)と水上での戦果(遺体流出)を区別していないことから、岸辺の戦果(遺棄死体)と江上の戦果(死体流出)を分けて記述する事は不可能だったと考えられます。








■結 論
 佐々木支隊の捕虜処刑について、確認できるのは約3100名(これには中島日記に記された太平門の1300も含まれている)。和平門での投降兵については詳細な資料がないので数は不明ながら、佐々木私記の記述を見る限りは捕虜の武装解除や殺害に手間取った形跡が見られないので、数千とは言っても実数かなり少なかったと考えられます。















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